先祖調査から軍歴調査へ。

戸籍で調べられる先祖調査は、だいたいが江戸末期頃のご先祖様まで遡れます。今を生きる人からすれば5代、6代前のご先祖様やその兄弟、親戚を知ることができます。ご先祖様の存在を「知る」だけで、ご先祖様にとっては嬉しい(供養になる)ことですし、お墓参りに行けばもっと喜んでくれると思います。

一方で、身近な家族、例えば今現在40代前後なら祖父やその兄弟にあたる方。祖父以外で直接会ったことのある人も珍しいのではないかと思います。その方々は明治末期~大正頃に生まれた方で、太平洋戦争をご経験された方々です。この方々が日本軍の軍人としてどのような人生を歩まれたのか、軍歴調査をすれば非常に細かいところまで(ケースバイケースです)知ることができる可能性があります。

祖父とその長兄の軍歴を調査してみました。

私の実家は岡山県なので、岡山県の役所に調査依頼をし、祖父・忠さん(4男)と長兄・昌幸さんの軍歴資料を入手いたしました。
祖父は終戦時に内地におり、無事に帰還し、私も小さい頃に会話したりと想い出があります。
一方、長兄の昌幸さんは沖縄戦に配属され、兄弟で唯一、戦場で命を落としています。
特に、長兄の昌幸さんの最期がどうだったのか、すごく気になり、沖縄県にも問い合わせをしたり、ネットで資料を探したりし、情報を集めてまとめてみました。

故人とはいえ、個人情報になるのですが、この情報からさらに当時の同僚の方、そのご家族などに繋がり、公文書やネットには無い情報交換ができる機会になればと思い、記載いたします。

祖父・忠さんの軍歴

臨時陸軍軍人届記載事項:

本籍地:岡山県岡山市大供xxx
生年月日:大正10年2月21日
徴集(初任官):昭和16年 兵種:工兵
応召:昭和17年4月1日(臨時招集)
所属:栃木県宇都宮市東部第39部隊金井隊・唯井隊

兵籍届記載事項:

官等級進級順序:
昭和17年4月1日 二等兵
昭和17年10月22日 一等兵
昭和18年4月1日 上等兵
昭和18年10月10日 兵長
昭和18年12月10日 下士勤務兵長
昭和19年2月1日 伍長
昭和20年2月1日 軍曹

学歴:広島市観音町第2高等小学校高等科卒業

従軍履歴:
昭和17年4月1日 第2補充兵として岡山津島中部第52部隊工兵隊に招集さる
昭和17年4月   第4中隊付けを命ぜらる
昭和17年6月25日 第1期教育期間終了
昭和17年12月1日 下士官候補者を命ぜらる
昭和17年12月8日 千葉県松戸市陸軍工兵学校に入校
昭和18年11月20日 千葉県松戸市陸軍工兵学校退校
昭和19年6月10日 豊橋市中部第115部隊飛行場設定隊要員として転属す
昭和19年6月25日 三重県亀山・亀山飛行場設定に参加
昭和20年1月10日 豊橋市中部第115部隊に帰隊
昭和20年1月13日 豊橋市老津飛行場補修に参加
昭和20年2月20日 燕第4850部隊・野戦飛行場設定隊要員に転属、茨城県眞壁郡眞壁秘匿飛行場設定に参加
昭和20年8月31日 現役満期、即日招集解除
昭和20年12月4日 軍の命により軍隊手帳その他の書類を焼却せるがため記憶により記載す

収集した情報から考えらえること(個人的感想)

祖父は、工兵として、特に飛行場建設のスペシャリストとして従事していたことが分かりました。下士官候補ということなので、陸軍では曹長、軍曹、伍長といった階級で、士官と兵との間の中間管理職といったところでしょうか。一番しんどいポジションで頑張っていたんだろうということが分かります。

小さい頃、祖父は大工仕事をしてたと聞いた記憶があります。きっと、建築の技術が高かったんだろうなと思います。ちょうどこの頃の兄弟と移っている古い写真がありますが、若々しく、テキパキ働いていたんだろうなと想像してしまいます。

祖父の兄(長兄・本家筋)昌幸さんの軍歴:

臨時陸軍軍人届記載事項:

本籍地:岡山県岡山市巌井xxx
生年月日:明治41年12月22日
徴集(初任官):昭和4年 兵種:工兵
応召:昭和19年7月17日(充員)
所属:沖縄県球10158駒場隊の隊

履歴申立書記載事項:

昭和19年8月17日 二等兵 中部第48部隊に応召
昭和19年8月30日 沖縄へ派遣のため、岡山出発
昭和19年11月1日 沖縄第32軍 第二野戦築城隊に配属
昭和20年6月10日 兵長 沖縄本島仲座において戦死

沖縄戦における第32軍第2野戦築城隊史実資料:

岡山から入手できた資料は非常に少ないため、ネットや沖縄県などに依頼して情報を収集し、履歴申立書記載事項のキーワードなどをヒントにその足跡を調査しました。
まずは、昌幸さんが配属された第2野戦築城隊がどのような部隊で、現地でどのような動きをしていたのかを調べました。

部隊の構成:
この部隊は、その名の通り野戦地において塹壕などの陣地を構築する工事作業が任務の部隊です。
第1~第3の3つの中隊、それぞれに第1~第3の3つの小隊、そしてその下にそれぞれ2つの分隊とで構成されていたようです。

まずは、この部隊全体の動きの履歴です。
昭和19年7月23日 岡山中部第52部隊において動員完結
昭和19年8月10日 岡山出発
昭和19年8月22日 門司港出発
昭和19年9月1日 沖縄港到着
昭和19年9月2日 第32軍の指揮下に入る
昭和19年9月3日 津嘉山において第32軍の戦闘指令所になるべき洞窟作業並びに隣村・喜屋武部落において沖縄陸軍病院の洞窟作業に従事す
昭和19年12月8日 第32軍の戦闘指令所、首里に変更により首里に移動す
昭和19年12月9日 首里において第32軍の戦闘指令所になるべき洞窟作業並びに陣地構築作業に従事す
昭和20年4月1日 首里において部隊主力は軍の直接防衛に任じ一部は工兵第24連隊(児玉昶光大佐)に配属、首里周辺の道路および橋梁の補修に従事す
昭和20年5月29日 首里より摩文仁(沖縄本島最南端)に移動
昭和20年5月30日 摩文仁において軍の戦闘指令所洞窟内部施設および鈴木兵団(独立混成第44旅団鈴木繁二少将)に配属、真栄平(摩文仁北方約4キロ付近)において陣地構築作業に従事す
昭和20年6月17日 部隊主力は鈴木兵団美田部隊配属せられ、真栄平において真栄平付近の戦闘に参加玉砕す(部隊長生死不明)
昭和20年6月20日 部隊一部は摩文仁付近の戦闘に参加全員玉砕せり

この資料には、第1~第3中隊のそれぞれの最期までの足跡が日付入りで細かく記載されています。その内容を確認した結果、昌幸さんの戦死とされる日にちおよびその場所を踏まえると、どうも第3中隊に所属していたようなので、第3中隊の足跡を記載します。

第3中隊の構成(各隊長名):
中隊長 大尉 松宮昇
 第1小隊:中尉 上念健次郎
  第1分隊:軍曹 黒川正雄  第2分隊:伍長 井本繁一
 第2小隊:中尉 小野勉
  第1分隊:軍曹 磯部竹夫  第2分隊:伍長 北野寅次郎
 第3小隊:少尉 竹内隆
  第1分隊:軍曹 橘川秀男  第2分隊:伍長 岡本時雄

第3中隊の足跡:
9月2日 第32軍麾下に入る
9月3日 島尻郡豊見城長堂において設営その後宿営す
9月4日 軍命により長堂金良地区の貨物廠洞窟作業に従事す
9月7日~30日 軍令により中隊は一ケ小隊欠をもって津嘉山軍戦闘指令所となるべき洞窟作業に従事、第1小隊(上念中尉)は貨物廠洞窟作業に任ず
12月1日 軍令により1ヶ小隊(竹内小隊)をもって辨ヶ嶽(弁ヶ岳)軍通信所構築のため首里市移駐、中隊主力は軍司令部洞窟内部補強作業に従事
12月8日 軍戦闘指令所首里に移転のため中隊は首里市に移駐す
12月8日~昭和20年3月22日 軍戦闘指令所洞窟作業に従事
3月22日~5月20日 主力をもって戦闘指令所洞窟内部施設補強作業および首里市周辺の陣地構築に従事す
 この期間中における戦死者:3月12日 一等兵 中橋政男、4月3日 上等兵 村主正義、5月9日 兵長 都井正美、5月20日 上等兵 河原茂夫
5月20日~5月28日 第44旅団美田隊配属、首里市南西地区の橋梁破壊、対戦車障害物の構築に従事す
 この期間中における戦死者:5月20日 上等兵 戸田清一(戦傷)、5月25日 上等兵 麻霧三郎、松本〇一(戦死)
5月28日 軍令により島尻郡摩文仁に転進せり
5月29日~5月31日 軍名により摩文仁・首里間および眞壁・与座間、山川・与座間道路補修に従事し、部隊転進を容易ならしめたり
 補修区域:摩文仁-首里(第1小隊 上念中尉)、眞壁-与座(第2小隊 小野中尉)、与座-山川(第3小隊 竹内少尉)
 この期間における戦死者:5月28日 伍長 井本繁一、5月31日 兵長 〇井徳松、尾島尺夫、井上茂次、上等兵 村上鉄男、北崎健一、瀬川〇次郎、榮朝男、〇上新六、島山工、一等兵 土井均、中島利一、堀田金七、幸山兼義、蔭山良雄、山田正一
6月2日 第44旅団美田部隊に配属、第1小隊(上念中尉)をもって美田部隊本部洞窟の拡張、内部施設監視硝構築に任ず、第2小隊(小野中尉)、第3小隊(竹内少尉)の2ケ小隊をもって敵対戦車障害物の構築、火砲陣地構築に任ず
6月6日 第2小隊(小野中尉)は仲座に前進、主力戦死す
6月10日 第1小隊、第3小隊を派す、両小隊主力戦死す。主陣地具志頭村波名城および仲座中隊長(松宮大尉)は仲座台上陣地にありて指揮、中隊指揮班主力戦死す。以後、残存者切り込み敢行す。
 6月2日以後における戦死者確認:将校4名、下士官3名、兵25名、部隊本部勤務 6月12日 上等兵 常久均、7月15日 上等兵 大原千代治

収集した情報から考えらえること(個人的感想)

昌幸さんの戦死日:6月10日、および戦死地:仲座、このキーワードを踏まえると、第2野戦築城隊・第3中隊の第1か第3小隊に所属していたのではないかと推測できます。
残念ながら、現時点はここまでしか分かりません。この先は、他の文書を探すか、この記事を見て偶然にも同じ部隊にいた方のご子孫の方などからお話を伺う奇跡があるかどうか・・といったところかと思います。

この調査の過程で、沖縄戦のことをかなり知ることが出来ました。軍隊というある種得意な思想・教育がなされ、理不尽なことも多々あったであろう上意下達の厳しい環境に身を置き、圧倒的な敵戦力の前に防戦一方の中、沖縄の一般の住民の方々や戦友の悲惨な最期を目の当たりにする、まさに「この世の地獄」。さらには自分が1秒後には砲弾を受けたり、爆撃されたりで死ぬかもしれないという継続的な恐怖というものを経験されたのだろうと思うと胸が苦しくなります。(米軍の中にも気が狂っておかしくなった兵が何人もいたというのも理解できます)

私に出来ることは、こういった事実を「知る」ということと、機会を作ってお墓参りすること。そしてなにより、同じ愚行を繰り返さないように、家族や親戚を、この国を守ること(守ろうと思うこと)が、後を生きる日本人として最低限必要なことかなと思います。

軍歴調査はご先祖様を深く知るだけでなく、日本の歴史も知ることができた(まとめ)

恥ずかしながら、私は沖縄戦があったことは知っていましたが、その内容がどのようなものだったのかまでは、この調査をするまで知りませんでした。
沖縄戦では第32軍という部隊が編制され、約10万人の勢力でした。(内、30%は現地で徴兵した住民や学徒隊、つまり沖縄の方です)。この沖縄戦で約20万人の命が犠牲になり、その半数が民間人も含めた沖縄の人々でした。
様々な書籍やメディアなどで詳しく知ると、そもそもこの戦争を始めるに至った日本政府と軍部および軍部内での争い、圧倒的な兵力を持っていた米軍(総兵力は沖縄県人口より多かった)でさえ、苦戦し、人として苦悩していたことなどが分かりました。

ありきたりですが、戦争をして得られるものは、失うものを超えることは無いと思います。しかし、この歴史を見るに、個々人がそう思っていても、外からの脅威や情報操作で世論ができあがり、徐々に戦争に向かっていくというシナリオは遠い昔も今も変わらないのではないかという恐怖を覚えました。

いまの日本、みなさんはどう思いますか?

今度、沖縄に行ける機会があれば追悼の旅としたいと思います。

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