二度と同じ過ちは繰り返さないように
人間は悲しいかな、同じ過ちを繰り返すことがあります。
まさにいま、それが繰り返されるかもしれない怖い時代だと感じることがあります。
それを止めるためにも、まずは過去の過ちを「知る」ことがスタートです。
「ご先祖様調査」は「軍歴調査」にも繋がります。【先祖調査】軍歴調査で祖父たちの苦労を知る。でも記載いたしましたが、約70~80年前のつい最近の出来事、私たちが子供の頃に触れあった人たちの経験したことを「知る」ことから始めましょう。
大叔父の体験
昔のことですが、私の祖父のすぐ上の兄にあたる大叔父が太平洋戦争で経験したことが新聞記事になっていたものを、その息子である叔父からいただきましたので、それを皆さんと共有したいと思います。
文章は種々考慮し、一部変更・割愛しています。
「良心の呵責にさいなまれて」
昭和13年(1938年)1月、甲種合格で広島第11連隊歩兵砲速射砲中隊に入営した。そこでは毎晩点呼の時、軍隊手帳の中身を全部暗誦させられた。言えないと軍人精神のない兵とみなされてすごい制裁をうけるから、休日や便所の中を利用して必死に憶えた。激しい場合は上靴などでたたかれ、頬は腫れて歯は浮き、飯も嚙めなくなる。入隊して1週間くらいは、あまりの苦しさに家の方に向かって毎晩手を合わせていた。
3か月の教育の後、同年4月に宇品港を出発、戦地に向かった。荒れる玄界灘を渡り、青島(チンタオ)に到着。以後は汽車輸送で四方県、済南そして四個陣からいよいよ第一線の地、光屯へと向かった。5月には最初の戦闘に遭遇。我々は自分自身で塹壕を掘り、敵に挑戦した。肉眼で見えるところに敵の大群がいる。迫撃砲や小銃の弾が毎日昼夜を問わずひっきりなしに飛んでくる、激しい敵の攻撃で部隊が全滅するのも目の前に見た。戦闘が終わって、道路脇の山の、洞窟の中の野戦病院で、重傷者の悲しい呻き声耳にしことも何度かある。
昭和13年から16年末まで、南は仏印(ミャンマー)から北は旧満州。35度~40度を超す灼熱の土地から、零下を下回る厳寒の土地まで転々とした。山また山、谷また谷、泥や田圃の中を行軍しては戦闘し、戦闘しては行軍する日々だった。暴風雨の中を行くときは全身ずぶ濡れで、途中何回も倒れたが、ついていかぬと敵にやられるから必死でついていった。マラリア、コレラがはやり何人かの友も失った。サソリにもかまれた。九死に一生を得たことも二度や三度ではない。
ある時、戦闘中に敵3名を捕らえた。土地の住民か兵士かよくわからない。
**とある出来事を経験する(記載内容を踏まえ、一部割愛)**
それから当分の間、夜うなされて寝られなかった。その後、現在に至るまでこの出来事は脳裏から離れない。男の魂が今も私を苦しめる。
昭和17年1月、ようやく広島へ上陸した。除隊するとき母と兄が面会所で出迎えてくれたが、兄が駆け寄ってきて「失礼ですが藤井XXさんでしょうか」という。たった3年間会わなかっただけなのになぜ・・・・。私の姿があまりにも変わり果てていたからだという。
戦争とはどうしてこんなにしてまで苦しまねばならないのか。いくら考えても私には分からない。戦場での思い出は生存している限り忘れることはできない。
全員が苦しい・悲しい思いをする
この大叔父の記憶が語るように、戦争となれば自分の命、自分の部隊・国を守ることが最優先になるのは当たり前。
頭の中では敵を倒すことをイメージは出来ても、目の前で惨状を目撃すれば人間として耐えられるものではない。
耐えられるのは、何も見てない、実際には戦わない一握りの権力者だけ。
その結果、一時期は勝ってその惨状に目をつぶっても、いつかは負けて悲しい・苦しい思いをする。当然のこと、責任者は責任を取らされる。
何一つ良いことは無い。
現代を生きる私たちは、祖父や曾祖父が経験した未曾有の惨状を知り、どのように今の危うい日本を世界を変えていけるか、真剣に考え、発信し、関係していかなければいけないと感じます。
どうせ、個人では何もできない、生活するだけで精いっぱい、その考えでいると「生きることも、商売することも出来ない」世界がやってくるかもしれない。私はそう恐怖を感じています。