ただの無鉄砲ではない

「勇」というと勇気とか勇敢とかいった言葉が連想されます。その理解としては、怖いもの・危ないことに対して立ち向かっている様のように考えられることが一般的ではないでしょうか。

武士道の「勇」は、そのような一般化された意味合いのものではありません。

例えば、衆寡敵せずの環境でも死を覚悟して突撃を敢行する、死罪になるのを覚悟で敵を討つ、そういった行動は単純に無鉄砲な行動ではなく、そこには「義」の裏付けがあることが大きな違いです。
武士は「義」の無い無鉄砲な「勇」を「匹夫の勇」とし、絶対に避けるべきこととして理解していました。そして、どんな試練にも耐える胆力、簡単には動じない心と精神力を鍛えると同時に武芸を通じて体力を鍛え、文武両道を目指しました。いざというとき、心技体が揃わなければ動けないからです。

「義を見てせざるは、勇無きなり」

これまで、多くの偉人たちが「勇敢」な決断・行動を行ってきました。

そこには、かならず「義」があったはずです。それぞれが、それぞれの想う「義」があり、そのためには命も惜しまない覚悟=「勇」をもって、行動を起こしたのだと思います。

例えは、西郷隆盛は自身を深く信頼しついてきた郷土の志士たちのため、大久保利通は日本という国の近代化のため、吉田松陰は外圧から日本を守るため、板垣退助は国民に広く開かれた政治制度を創るため・・・。
勝手な推測ですが、「我が国のため」という共通の「義」があったように感じます。しかし、その思想ややり方の違いにより多くの血が流れた歴史は痛ましいものです。

現代における「勇」とは

さて、現代の私たちに目を移してみましょう。私たちは「義」に裏付けられた「勇」ある行動をしているでしょうか。
こればかりは、人生を賭して行うレベルの「行動」であり、いますぐやっている・やってないの答えが出るものではないかもしれません。

しかし、世間を見渡すと日本は長年「出る杭は打たれる」風潮が支配し、最近は「逆ギレ」する個人も増えてくるなど、どう見ても間違い・横暴が存在していても声を挙げたりすることはなかなか無い社会になっているように感じます。

自戒の念を込めて、「正義の道理」(義)を感じることについては、「勇」をもって声を上げる、行動を起こせるように心技体を鍛えたいと思います。

「武士道」の成立ち・全体感はコチラをご参照ください。

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