人間の魂がもつ性質の内、最高のもの「仁」

「他者への愛情、寛容さ、同情、憐み」といった性質は至高の徳であると言われる。
特に、「上に立つ者」には必要絶対条件である。

孔子曰く、「君子はまず徳を慎む。徳あればここに人あり、人あればここに土あり、土あればここに財あり、財あればここに用あり。徳とは本なり、財とは末なり。」

孟子曰く、「不仁にして国を得るものは、有之り、不仁にして天下を得るものは、未だ之有らざるなり。」

「徳」と封建制度

かつての日本、長く封建制度(領主と民、明確な階級社会)で治められてきたが、領主は「専制的」であったのか?

中には「暴君」と言われるような「専制的」な治め方をしたものもいたかもしれないが、そういったものは長くは続かない。

上杉鷹山曰く、「国家人民のたてたる君にして、君のためにたてたる国家人民には之無き候」

領主は民との間に相互義務的な感覚はなくとも、代々続いてきたご先祖様(世襲制)や天皇(朝廷)そして、天(神)に対してはある種の「運命・天命・責任」を負っていたと思われる。
つまり、民を慈しみ、民が国家の礎、自らの使命を忘れてならないといって家訓や教えなどの「教育」が備わっていた。

この前提が共有されている社会であるために、「絶対君主」と「人民主権」がうまく融合した形であり、従属を強いられる人民も「君主への信頼と期待」をもっていたと言える。

「武士の情け」の意味するところ

「仁」とは前述の通り、慈愛、優しさ、寛容さといった、いわば母のような徳である。一方、「義」は正義、道理、義理という、厳格な父のような性質である。
私たちは社会を生きる中で「厳格な公正さ、正義」だけを物差しにしてはいけないし、「慈悲、同情、情け」の感情だけでもダメだと教えられる。
伊達政宗曰く、「義に過ぐれば固くなり、仁に過ぐれば弱くなる」

「武士の情け」とは単純に「やさしさ、同情」という意味ではなく、「正義や道理を基礎とした上での相手に対する配慮」、言い換えると「生殺与奪の権力を持っていることを自覚した上での、自制心」ということになる。

源平合戦の有名な一幕。源氏方の猛将・熊谷次郎直実は須磨の合戦にて平氏の敵将を追い詰めた。この場合、武士は同等かそれ以上の相手としか闘いを行わない。直実は相手に名を問うたが答えなかったので兜を剝ぎ取った。すると、そこには自らの子供(この合戦で初陣)と同じ年頃のうら若き少年の顔。平敦盛であった。
直実は敦盛の顔をみて、軍を引くよう(逃がす)に命じたが、敦盛は引かず、「我が首を取れ」という。そうこうしている内に直実の軍勢も押し寄せ、「雑兵に首を取られるくらいなら」と「相手の名誉を慮って」、苦しくも自ら手を下した。

この物語も「権力を持つ者の仁・徳」=「武士の情け」を表現している。
この「敵にさえ仁の心を持つ」考え方、価値観が日本人の奥底にしっかりと刻まれているからこそ、いまの日本社会を創り上げたのではないかと感じる。
現代、私たちが所属する組織、会社、団体、自治体、国家、そこには「権力を持った人」が必ずいます。彼らは「仁の心」を持っているでしょうか?
「いまだけ、金だけ、自分だけ」になってないか?
そこに疑問を感じるなら、ひとりひとりが、今一度この日本人の精神性を学び、伝える努力をしなければならないのではないかと思います。

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